| Sociology of Education
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「中教審答申と高校改革」『月刊高校教育』9月号,学事出版(1997)
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医師の治療が的確な診断を前提とするように、教育改革も現状分析と 問題の析出からはじまる。教育改革の前提となる問題認識を高校教育 に絞って要約してみると、@画一的な教育、A不本意入学・中途退学 の増加、B就業構造と学科・教育内容のミスマッチ、C青少年の特性 の変化に対応していない、などが主要なものである。そしてとくに答申 がウェイトをおいているのは、「過度の受験競争」である。答申のなか で大学と高等学校の入学者選抜の改善についてかなりのスペースを割い ているのは、過度の受験競争がどれだけ問題視されているのかを物語っている。 たしかに中教審に限らず多くの教育改革案に通底している問題意識は 過熱した受験競争であり、またマスコミを中心とした世論も、このこと をいわゆる教育荒廃の根本原因として指摘する。この限りにおいて、 中教審の問題設定は多くの人々にとって受け入れやすい。しかし、 公立中学校教員による「もう、勉強、勉強、テスト、テストと追いまくられ、 受験地獄にあえぐ中学生など、どこにもいない」(河上亮一「教育現場から みたテスト社会」耳塚寛明編集『季刊子ども学第3号特集テスト社会 と子ども』ベネッセ教育研究所、1994年、42頁)という現場の観察を念頭 に置いたとき、この答申の問題設定をどう読めばよいのだろう。 答申は、受験競争に巻き込まれた子どもたちの生活から「ゆとり」が失われ、「過度の受験勉強に神経をすり減らされ、豊かな人間性を育むことが困難になっている」という。この「過度の受験競争」→「ゆとりの喪失」という問題認識は、答申全体のあり方を強く規定している。であるからこそ、情緒に流されない子どもの生活を直視した観察が必要とされる。子どもの生活上の問題を専ら受験地獄に起因させるのは教育改革の常套手段だが、いい加減単純なステレオタイプを免れた事実認識の必要性に気づいてもよいのではないか。現下の問題は、むしろ受験競争に参加しない青少年の増加であり、努力主義の衰退であると見る。 教育改革案が備えていなければならない第二の要素は、手段(政策)と目的(克服されるべき問題)との間の合理的関係−言葉をかえていえば、問題状況に対して効果的な政策の選択である。この点でも、読むものを困惑させる論理展開が見られる。 例をあげよう。答申は過度の受験競争の状況を記述する中で、注意深く少子化の影響に言及している。いわく、「受験競争は少子化が進む中で、長期的に見ると、大学・高等学校の全体の収容力という観点からは緩和する。しかし、特定の大学・高等学校をめぐる受験競争は依然厳しく、『ゆとり』の中で「生きる」力を育む教育を実現するためには、入学者選抜の改善や学校歴偏重社会の是正等の取り組みを通じて、その緩和を図ることが必要」だという。ここでは、受験競争の問題が主として特定の大学・高等学校をめぐる問題であると分析する。しかし入学者選抜の改革を提案する段になると、この限定は崩されてしまう。大学入試や高校入試において、選抜方法の多様化や評価尺度の多元化が必要というわけである。問題が主として特定大学・高等学校への受験競争にあるならば、その解決策もまたそこに焦点づけるべきではないか。 さらに、今次の教育改革は、教育システムの根本的な体質の改革ーすなわち構造改革、制度改革を志向しているといわれている。新しいタイプの高等学校の奨励や、中高一貫教育の提案、教育上の例外措置の提案は、制度レベルで「画一性」に風穴を開ける意図を持つ。 しかし、制度改革は、教育改革のひとつの選択肢であって、同じ問題に対処する方策にはこのほかに、組織レベルや個人レベルでの改革など多くの選択肢があり得る。制度レベルでの改革は、むしろ伝家の宝刀であって最終的な選択肢だといってよい。根本的な体質改善によって内蔵が破壊されることがあるように、これまで日本の教育システムが持ってきた美徳が、ラディカルな制度改革によって失われることが大いにありえるからである。この意味で、ふつうの教育改革の策定の手順は、組織レベルでの改革や部分的な対症療法の得失・限界を検証する作業を経るべきだろう。その上で、伝家の宝刀が、おっとり、抜かれるのが望ましいのではないか。 問題を効果的に解決すると思われる選択肢を並べて相互に比較する作業が必要なのだが、その際重要なのは、ある一つの政策が、意図された効果をもたらすだけではなく、往々にして意図せざる帰結を惹起する可能性である。いわば副作用に対する警戒である。これが教育改革案が備えるべき第三の要素である。 教育上の例外措置は、学習の進度が遅い子どもや特定の分野で希有な能力を持った子どもという、ごく一部の子どもたちの処遇を変えるだけだろうか。それは、一人一人の能力・適性に応じた教育を可能にするという、意図された効果をもたらすだけだろうか。中高一貫教育の選択的導入は、いくつかのモデルが示されているとはいえ、子どもたちにゆとりある生活の機会を与えるという意図された帰結だけをもたらすのだろうか。 服用する薬の副作用と期待される効果を勘案し、副作用が予期される場合であっても、服用したほうがよい場合がある。しかし、その判断以前に、意図された効果と意図せざる帰結を念入りに予測する作業が、教育改革案の策定に不可欠の要素であることは間違いない。 そもそも、答申を主導する多様化・個性化・弾力化・柔構造化・複線化などの理念は、教育システムの改革において、それらのみが追求されるべき方向性だろうか。 第一に複線化についていえば、この概念はもともと、高等教育まで接続する学校系統と、初等ないし中等段階で学校を離れる人々のための学校系統というデュアル・システムを指すものだった。しかもいずれの学校系統を選択するかは、生まれ=出身階級と密接に結びついていた。おそらく中教審関係者が複線化というとき、そこには教育制度の社会層による分化という意図はないのだろうが、結果的にこれからのわが国の学校制度が、階級的分化をともなったものとなっていくおそれが強い(耳塚寛明・樋田大二郎編著『多様化と個性化の潮流をさぐる 高校教育改革の比較教育社会学』学事出版、1996年などを参照)。仮に多様化を図るにせよ、制度的画一性のもとでの組織レベルでの多様化を図ることによって、制度的複線化が社会層と結びついた教育の不平等を惹起しないようすべきではないか。アメリカの中等教育は主としてコンプリヘンシブハイスクールというほとんど唯一の制度から成立しているが、そこでの生徒たちの生活やカリキュラム選択は、まことに多様(すぎる!)である。それゆえ、選択肢には、画一的な制度のもとでの組織レベルでの多様化もあり得る。言葉の元来の意味における複線化を招く危険を冒してまで、新しい学校類型を制度的に作り出すことの積極的な論拠は乏しい。 第二に、多様化・個性化と「標準化」を並立させて教育改革を構想する必要性についてである。個性を尊重し、子ども一人一人の能力・適性に応じた教育が必要であるといわれて、否定できる者はいない。また戦後の新制高校が画一的な教育課程から出発した経緯を考えると、一定程度の多様化は不可欠といえる。問題は、多様化・個性化と標準化のバランスをどうとるかという点にある。荒井克弘は、高等教育の大衆化と多様化の現状を考えると、中等教育は「コアとなる部分を共通に学習するという形態をとらないと、子どもたちの進路そのものを閉ざしてしまう」と警告を発する(「大学の大衆化・高校の多様化・大学入試の多様化が大学のリメディアル教育の背景」『進研ニュースView21』ベネッセ、1997年5月12月号、7頁)。これは高等教育との接続関係から見た多様化・個性化への警告だが、国際的にも認められた日本の初中等教育の卓越性・効率性を維持する上でも、標準化に配慮する必要があるだろう(たとえばトーマス・ローレンは、日本の高校教育を観察した結果、国民に勤勉性などの文化を与えてきたこと、教育の効率性が一般の人々の能力水準を高めることによって高い経済的生産性を生むことに貢献してきたことなどを評価する。これらはわが国の教育が構造的に生み出してきた成果・美徳である。友田泰正監訳『日本の高校』サイマル出版会、1988年)。 誤解を恐れず一般化していえば、教育は宗教にほかならない。アンビバレント(両面価値)な価値は宗教的信仰の対象とはなり得ない。つねに一方の価値・ベクトルのみが強調される隘路に陥りやすい。教育改革においても、多様化・個性化・弾力化・柔構造化・複線化といった輝かしい改革のベクトルが専ら強調され、それらとバランスをとるべき標準化・社会化・画一性・単線化などのベクトルは改革の背後に追いやられてしまう。教育改革を構想する際には、それら背後に追いやられた隠れたベクトルをもう一度表舞台に立たせる必要があるのではないか。 振り子の振れすぎに注意しておきたい。 |
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