お茶の水女子大学教育社会学研究室
Sociology of Education

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耳塚寛明 研究業績・著作

ここに掲載するのは、耳塚寛明の既発表論文です。初出出典を明示いたしましたので、参照・引用される場合には、出典を明示していただけるよう、お願いします。

「ロマンチック教育学を問い直す(教育異見)」『総合教育技術』11月号,小学館(1996)

  1. 「いもほり」教育学


  2. ある小学校で1年生の生活科の授業を見学した。テーマは芋掘り、寒風すさぶ校庭に集められた子どもたちに、まずどんな気持ちで「さっちゃん」を掘るのかという問いが放たれた。さつまいもに対する「さっちゃん」という擬人化した問いかけに仰天したのだが、もっと驚いたのは、「ごめんなさいといいながら、たいせつに掘る」という子どもが数人いたことだった。教員はそれに対してなんらコメントせず、「では大切に掘りましょう」と指示し、子どもたちは喜びいさんで芋掘りをはじめた。

    彼らを観察していると、芋を上手に掘り出せた子どもは、ごくわずかでしかない。大半は、コップで傷つけたり、半ばで折ってしまっている。はじめは失敗しても、試行錯誤的にうまく掘れるようになるかと期待して見ていたが、そんなことはない。芋をぽきんと折る子どもはいつまでたっても同じ掘り方をする。傷つけられた芋たちと、ゴミとなった葉が集められて授業は終了した。

    一連の授業プランの中にこの1コマは位置づけられているのだろうから、この時間だけを見て授業の評価をすることはできない。しかし、芋を大切にするためには、相当な知識と技術が必要なのではないかという素朴な疑問が残った。あの授業の中で、大切にされたさっちゃんはどこにいたのだろうか。「大切にする」という理念はどこへ行ってしまったのだろうか。私はこの授業に、「ロマンチック教育学」を見た。

  3. 豊かに生きる子どもを育てる――創造性、自己を拓く力、個性化学習を求めて


  4. ロマンチック教育学とは何か、このことに触れるのはしばらく留保して、いまひとつデータをあげさせてほしい。図(省略)は、最近の国立大学附属小学校の研究主題をとりまとめた結果のひとつである。

    (注)データの詳細は省略するが、国立大学附属小学校における平成6年度以降の研究紀要(各小学校で最新のもの)に現れた研究主題を単語に分解し、その出現頻度をカウントした。単語の選択にあたっては、類似語をひとまとめにした。たとえば、「子ども」「子」「児童」は、「子ども」として分類した。図は、頻出用語のベストテンである。なおデータは『先進事例研究 1次報告書』(ベネッセ教育研究所、96年7月)において発表したものの一部である。

    このデータは、わが国の初等教育の将来像を探る目的で蒐集されたものである。 国立大学附属小学校における実践研究が、そのまま次代の初等教育に反映され るわけではないが、初等教育が動いて行こうとする方向を指し示すベクトルを、 そこから抽出することは可能だろう。

    さて、研究主題を単語に分解してカウントした結果、抽出された単語の総数は、74であった。74の単語中、出現頻度が1であったものが33を占め、残りの41は複数校の研究主題に現れている。さらに10校以上の研究主題に現れた頻出用語は7つある。このことは、相当程度共通した用語によって、国立大学附属小学校の研究主題が記述されていることを表す。なかには、他校には見られないユニークな主題設定を行っている学校がないわけではないものの、類似した意味内容をもつ研究主題を各校が共通して設定する傾向があることを物語っている。使われている語彙の乏しさは、研究主題の理念・目標の共通性を意味する。附属小学校の実践研究の主題が、近未来における初等教育の変化の方向を予示するとすれば、このことは、初等教育が変化していく方向性としてかなり一致したベクトルが存在することを示唆している。

    ではそのベクトルとはなにか。図のベストテンを見ると、とくに「子ども」「創造」「育む」の3つが、20校以上で使われている。図の単語を用いて研究主題を仮想的に作成するとすれば、「豊かに生きる子どもを育てる−創造性、自己を拓く力、個性化学習を求めて」のようになる。多くの附属小学校における研究主題は、おおむねこのサンプルを基本としたバリエーションでしかない。そしてこの仮想研究主題は、国立大学附属小学校のみならず、我が県にも、我が校にもあてはまるものだろう。

    データを眺めていると、いくつかの興味深いベクトルが浮かび上がってくる。

    第一に、第1位を占めた「子ども」に対して、「教師」は3校で用いられているにすぎない。さらに「自己、個、個性」という概念でくくることのできる単語が多数用いられている。このことを考えると、教育の対象としての子どもではなく、学習の主体であり、自己学習、自己実現の主体であり、また個性的存在としての子どもに研究主題の焦点が合わされていることがわかる。

    第二に、使用されている頻度の高い用語として、創造、育む、支援、生きる、生き抜く、ひらく、切り拓く、深める、豊かになどがある。子どもたちの教育(学習)をつかさどる(支援する)教育組織における研究主題であるがゆえに、こうしたプラスの価値をもった言葉が多用されていることは当然かもしれない。しかしながら、プラスの価値を持つものの、概念内容を特定化しがたい抽象度の高いもの、あるいはそれらを実践化する方法論が容易には想像しえないものがあることには、注意が必要である。21世紀、可能性、変容、明日など、総じて「未来志向」をあらわす言葉が多用される傾向にあることが第三の特徴だが、これらの概念の使われ方にも同様の注意が必要である。

    こうした研究主題の分析から浮かび上がってくるのは、子どもたち個々人の発達可能性は無限であり、それがある種の環境の中で開花することを期待し、学校や教員を個の可能性を拓くための支援者として位置づける、ある種のイデオロギーである。これを「児童中心主義」と呼ぼう。近未来における初等教育の柱は、このイデオロギーに支配されたものとなっているだろう。この児童中心主義のイデオロギーが、先に述べた美しい言葉と論理で彩られたとき、実践的方法論を欠いた「ロマンチック教育学」が成立する。私が芋掘りの生活科にみた教授理論は、これである。

  5. 個性化と社会化


  6. 先の研究主題に現れていたのは、子どもを「個」としてとらえる発想だけではない。「集団」あるいは「共同性」としてくくることのできる用語−たとえば「互い」「集団づくり」「ともに」「共鳴」「共生」などもたしかに用いられている。これらの単語からは、自立性や個性のみならず、社会性あるいは集団のなかで個の育成を目指す方向も読みとることができる。しかし、「自己、個、個性」が使われている頻度と比較すると、集団や共同性に関わる言葉はごくごく少数であって、やはり全体的な研究主題の力点は、「個」としての子どもにあることが明らかである。

    ロマンチック教育学の信念を形作っている重要な要素は、集団や共同性を強調する以上(以前)に、子どもを個としてとらえ、その個性化を目指すところにある。だがしかし、このロマンチック教育学の隆盛の背後にあって忘れ去られているものはないのだろうか。

    青少年に将来成人として諸々の役割を首尾よく遂行するのに必要な態度や能力を身につけさせることを「社会化」という。これらの態度や能力には、国民全員に必要な基礎的な読み書き能力をはじめとして、さまざまな職業分野で必要とされる専門的能力・態度等が含まれる。また、時間を守ること、与えられた課題をきちんとこなすこと、人の話に耳を傾けること、行儀よく行動することといった基本的な習慣や社会的規範の獲得も、青少年が将来社会に出て一人前の大人となるために欠くことのできないことがらである。社会化の営みはもちろん家族によっても担われているが、同時に、こうした社会化の仕事を果たし、青少年を子どもから成人へと円滑に移行させることが、現代の学校には期待されている。私が主張したいのは、学校教育におけるこの社会化価値の復権である。

  7. 振り子は振れすぎていないか?


  8. 先頃出された中教審の答申にあっても、一人一人の個性を尊重するという個性化がスローガンとして強調されている。それ自体誰もが否定できない崇高な目標であることは間違いない。だが、社会化に置き換わって個性化が主張(実践)されてはならない。社会化なき個性化は無意味である。同一の社会に生きる者として不可欠なパーソナリティの訓練を欠いた、この意味での「個性的人間」たちが大量生産されることを想像してみればよい。社会化は、パーソナリティの「基礎基本」、個性化の基礎であって、個性化が社会化と対立する形で、あるいはそれに置き換わる形で強調されることは危険だろう。

    中教審答申を注意深く読めば(というよりも読めば明白なのだが)、社会化以上に個性化が強調されているわけではけっしてない。青少年の社会性の不足や倫理観の欠如ははっきりと指摘されており、これは明らかに社会化機能の強化の必要と読みとれる。それゆえ中教審が誤っていると指摘したいのではない。

    こわいのは、社会化から個性化へとベクトルの転換が起こり、社会化なき個性化が目標とされてしまう事態である。振り子の振れ過ぎである。芋掘り生活科の授業に見えたロマンチック教育学は、社会化の重要性にも目を向けているだろうか。附属小学校の研究主題がスローガンとして一人歩きをしたとき、社会化の視点が消え去ってしまうことはないだろうか。

    「不易と流行」という言葉に代表されるように、教育の目標や教育への期待は、そもそもアンビバレントな価値を含んでいる。今回の中教審答申を読んでも、社会化と個性化の問題をはじめとして、教育内容の厳選vs新しい教科枠組みの模索、基礎基本の徹底(共通部分)vs豊かで多様な個性の強調、ゆとりvs充実、生きる力の育成vs学校機能の縮小等、一見矛盾したベクトルの双方が強調されている箇所をあげることは困難ではない。いずれか一方を重視することによって他方の実現が阻害されてしまいやすいのだが、それを双方ともバランスよく遂行する−実のところ、こうしたアンビバレントな価値の実現を目指さなければならないのは、教育という営みに課された宿命なのかもしれない。

    単純化して述べすぎた嫌いはあるが、ロマンチック教育学は宗教と同じだと思う。教育実践者は、誰も否定できない価値をもった経を唱えるだけの宗教家とは一線を画してほしい。アンビバレントな価値は信仰の対象とはなりえない。つねに一方の価値・ベクトルのみが強調される隘路に陥りやすい。それゆえにこそ実践的方法論を欠くロマンチック教育学が宗教として人々の心をとらえてしまう。

    個性化というスローガンに隠された社会化という基礎を忘れないでほしい。これが小論で主張したかった唯一のことである。児童中心主義を実現するためには、お題目を唱えるだけではなく、たしかな方法論が必要である。子どもの個を育てるためには、個性化と社会化の双方を追求する、途方もない知恵と勇気と技術が不可欠である。


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