お茶の水女子大学教育社会学研究室
Sociology of Education

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耳塚寛明 研究業績・著作

ここに掲載するのは、耳塚寛明の既発表論文です。初出出典を明示いたしましたので、参照・引用される場合には、出典を明示していただけるよう、お願いします。

耳塚寛明(お茶の水女子大学教授)+金子真理子(東京学芸大学専任講師)+諸田裕子(お茶の水女子大学大学院博士課程)+山田哲也(一橋大学大学院博士課程)
「先鋭化する学力の二極分化――学力の階層差をいかに小さくするか」『論座』2002年11月号(朝日新聞社):212-227

  
学校現場のおかれた「奇妙な」二重構造

 学力低下をめぐる議論は、いま、転機を迎えているように見える。文部科学省の一連の政策とコメントに、学力重視への基本的な「路線転換」の兆しが見られるからである。
 学校週5日制が完全実施され、新学習指導要領が導入されたのは、わずか半年前のことに過ぎない。新しい学力観に立った、「教育」から「支援」への転換、知識偏重の詰め込み教育から生きる力を育てる支援への転換、子どもの生活にゆとりを取り戻すーそれらが盛り込まれた教育改革の基本的方向が提示されたとき、メディアは拍手をもって歓迎した。新要領は「ゆとり教育路線」の総決算になるはずだった。
 ところが、2000年前後から状況は一変する。高等教育関係者によって口火が切られた学力低下への危惧がまたたくまにメディアを席巻し、広く保護者の不安を煽った。学力低下批判に直面した文科省は、その不安に対処するために次々に手を打ってきた。従前は学習内容の「上限」だった指導要領を「最低基準」として定義し直し、また指導要領をこえる教科書の記述を認める答申を先頃発表した。教科書を越えた指導、たとえば「台形の面積」などは、発展的学習の事例集の中で復活をみた。文科省の来年度予算(概算要求)は、さながら学力向上事業のラッシュである。学力向上フロンティア事業をはじめ学習指導カウンセラーの派遣など、子どもの学力低下への不安を払拭するための対策が目白押しである。当初多発された「学力は低下しない、していない」との強弁は、いつのまにか「学びのすすめ」へと変わった。基本的路線転換が文科省によって宣言されることなく、他方で次々に実質的な路線転換政策が発表されるという事態は異常だが、こうした経緯をみると、もはや文科省は、ゆとり教育一辺倒から大きく舵を切って学力重視へと路線転換を行ったとみてよいのだろう。
 だからといって、安心して、学力低下に関する検討と議論を終焉させてよいわけではない。
 第一に、文科省による路線転換は学校のすべてを変えたわけではない。小中学校教育の現場では、この4月から導入された指導要領にもとづく学習指導が、法的拘束力のもとになお実践されている。制度的にいえば、一連の学力対策事業やアピールは、指導要領という基本構造に対する薬味ないしは飾りに過ぎない。いま学校現場は、新学力観・ゆとり教育を基本理念とする「旧い」新指導要領の骨組みの中で、学力対策にしゃにむに努めなければならないという、奇妙な二重構造の中におかれているのである。
 第二に、元来、教育政策の基本的ベクトルは、将来社会の予見に加えて、徹底的な現状の「診断」に基づいて策定されなければならない。80年代以降のゆとり教育路線は結局のところなにをもたらしたのか、新学力観はここ10年ほどで子どもの学力をどう変えたのか。揺れ動くメディアや世論への対応として教育政策が立案されることほど危険なことはない。わが国の教育行政は、時勢に敏感なあまり科学的診断を軽視する不幸な伝統があり、今回の路線変更もおそらく例外ではない。この意味で文科省自身が今年初頭に実施した、小中学生約50万人を対象とした学力調査は瞠目すべき事業である(この稿の執筆時点で、残念ながらその結果は公表されていない)。

関東地方12都市、17公立小学校、約6200人を対象に学力調査

 本誌6月号と7月号で、東大苅谷教授のグループが「『学力低下』の実態に迫る」(上下)を発表した。それは、関西地区での調査を12年前と比較することによって、小中学生の国語と算数・数学の学力が低下傾向にあることを実証し、学力格差とりわけ社会階層間の差が拡大した可能性を示唆した。今回の私たちの報告も、苅谷グループの調査と同じく、東京大学学校臨床センターが計画・実施した学力研究プロジェクト(代表・市川伸一教授)の一環であり、その第2弾である。
 私たちが実施したのは、関東地方の12都市の公立小学校17校における学力調査である。調査は本年2月から3月に実施し、小学校1年生から6年生の児童7998人が対象となった(分析の対象は算数および国語の学力調査を受検した6228人)。この調査は、当時の国立教育研究所(天野清現中央大学教授代表)が、1982年度(2〜3月)に、同じく関東地方の17都市の公立小学校児童5307人を対象とした調査を、再度行ったものである。今回は算数の結果を中心に報告する。
 比較の対象として私たちが国研1982年度調査を選んだのは次の理由による。第一に、小学校全学年にわたる基礎学力が丹念に測定されていること。設問は、計算、量と測定、図形、数量関係の領域にわたって合計129問におよぶ。児童は1年から6年までの問題が順に並んだ調査票を与えられ、すべての問題をやり終えるか、やれる問題を全部やりおえるまで時間が与えられた。1982年の算数の正答率はどの領域でも83〜89%であり、基礎学力を測定するテストとしてすぐれた調査のひとつである。さらに、児童のいまの学年だけでなく、かつて学習した事項やこれから学習するはずの事項の修得状況を見ることができる特徴もある。第二に、調査の規模が十分に大きく時系列的な比較に耐えること。第三に現時点で1982年調査とほぼ同じサンプル構成がとれること。調査実施条件の厳しさから(長い時間を必要とする)、前回の対象校すべてから協力が得られたわけではないが、十分比較に耐えるサンプル構成であると考えている。第四に、調査結果が詳細な信頼性の高いレポートして公刊されていること(天野清・黒須俊夫『小学生の国語・算数の学力』秋山書店、1992年)。
 私たちは1982年と同じ学力調査に加えて、管理職調査、担任教員調査、児童質問紙調査を独自に実施した。それらは、子どもたちの学習行動や通塾状況と家庭的背景、教員による学習指導の状況を知ることによって、学力問題の背景を明らかにするためである。本稿では、学力低下論において、重要ではあるがなお十分には議論されていない、以下の論点を提示する。
@学力は低下したか 基礎学力を測る設問は、今日のようなゆとり教育の強調や新学力観とは無縁な1982年時点において、選択されたものである。それらの設問は、学年配当に若干の変化があるものの2002年時点での指導要領(92年改訂)にすべて含まれている。しかし、いわゆる移行措置や教科書の簡素化などにより取り扱いに微妙な変化がみられるものも含んでいる。全体としての学力低下の状況を検討した上で、そうした教育課程行政の影響を見ることにする。
A学習遅滞と学習速進 1学年以上修得が遅れている児童を「学習遅滞」、逆に1学年以上修得が速い児童を「学習速進」層として取り出し、両者が時系列的にどう変化したかをみることによって「学力の分極化」の状況を検討する。
B学力の規定要因 学力に対する家庭的背景(社会階層)の影響はどの程度大きいのか、それは個人の努力とどう関わって学力を規定するのだろうか。
C努力・学力の格差構造と教育方法 家族的背景が学力形成に及ぼす影響力は、学校教育の力によって緩和することができるのだろうか。担任教師の教授方法(ペダゴジー)のスタイルと、学力・努力の階層差との関連を検討する。

基礎学力は低下したか

 関東調査の特徴は、まずもって基礎学力水準を過去と比較できる点にある。表1は、当該学年までの合計正答率(算数)を、児童の学年別に示したものである。たとえば2年生なら、1年生と2年生に学習すべき設問に、何%正答したかを表す。
 全体としてみると、2002年の正答率は77.2%、1982年の正答率は84.4%であり、7.3%ポイント低下した。82年時点ではおよそ8割5分の正答率を示す、基礎的学力を問う問題であったが、2002年時点では正答率が8割を切るようになった。低下幅が大きいのは3年生、2年生、5年生であり、1年生と6年生では相対的に低下幅が小さくなっている。
 表2は、最終学年である6年生について、設問ごとの正答率に着目して、低下傾向を確認したものである。「得点低下数欄」は、わずかであれ正答率が低下した設問数、「↓ 低下」欄は3%ポイント以上低下、「↑ 上昇」欄は3%ポイント以上上昇、「→ 横ばい」欄は±3%ポイント未満の設問数をそれぞれ表す。
 今回の調査で6年生が解けてよいはずの設問は、1年から6年までのすべての設問129問である。その129問中109問、すなわち84.5%の問題について正答率が低下している。データは省略するが、設問領域別に分けてみると、「低下」問題が相対的に少ないのは「量と測定」と「図形」領域、逆に「低下」が多いのは、「計算」と「数量関係」領域だった。「計算」領域の3分の2、「数量関係」の5分の4が3%ポイント以上の正答率の低下をみた。
 ここまでのデータは、1982年から2002年の間に、小学校児童の算数の学力が低下したことを一致して示している。

教科書簡素化の影響が顕著

 私たちは、いまみた学力低下の背景を解明するために、教育内容の取り扱いが変わったことの影響を抽出することを試みた。じつのところ、1982年調査の対象となった児童が受けた算数の授業と、2002年調査の児童が受けた算数の授業とが、まったく同じであったわけではない。この間に、教員の教授行為に大きな変化をもたらした要素は、@教育内容それ自体の変化(削減や学年配当、取り扱いの変化など)と、A教育方法の変化(新学力観に代表される、教育観、子ども観、指導(支援)方法、評価方法などの総体の変化)に大別できる。このうち前者に着目して教科書等の比較を行い、設問を次の3つに分類した。
@「移行措置対象設問」 新課程への移行を容易にするため、指導要領の特例として、平成12年度〜13年度の間省略するものとされた事項に関わる設問。129問中16問。
A「簡素化」 指導要領に存在し、また移行措置対象設問ではないものの中で、1982年度時点に比べて教科書における説明が簡素化され、ないしは例題が存在しなくなった設問。15問。ただし2002年調査時点では教科書自体がかなりのボリューム削減になっているため、全体として簡素化が進んだ。ここで「簡素化」として分類したのは、例題が存在しなくなったなど、格段に簡素化がなされた事項である。
B「不変」 移行措置対象設問ではなく、かつ簡素化された設問でもない設問。98問。
 この分類に基づいてあらためて正答率の低下幅を算出してみた(教科書との対応を明確にするために当該学年の履修範囲に設問を限定)。全設問に関する低下幅10.7%(1982年正答率75.2%→2002年64.5%)は、移行措置対象設問と簡素化設問を除くことによって低下幅8.0%まで減少する。やや乱暴ながら、10.7%の学力低下のうち、2割強(10.7%マイナス8.0%分)が、移行措置によって教育内容を削減し、また教科書における説明を簡素化した教育課程行政に起因するものだと推算できる。学年によってはこの数値はもっと大きい。
 教科書における取り扱いに変化のあった設問に注目し、その正答率がどう変化したのかをじかにみてみることにしよう。表3によれば、明確に簡素化された15問中13問で、正答率の低下がみられる。低下幅は最大13.8%であるが、低下した設問すべてが3%以上の低下であり、うち11問が5%以上の低下をみた。
 参考までに、国語に関してもみておこう(表4)。例示したのは6年生の「敬語の使い方」についての設問である。1982年調査の対象児童が使った教科書ではこの事項に3頁が割かれていたのに対して、2002年の児童が使っている代表的教科書では2頁に過ぎない。その分説明と例文が削減された。その帰結は最低で7%、最高で18%という正答率の低下にはっきり現れている。
 教育内容の取り扱いの変化は、ストレートに子どもたちの学力に影響を与える。教育内容を削減し、また教科書の説明をわかりやすく(することを意図して)簡素化することによって、子どもたちの学力はその分高まるわけではない。むしろ基礎学力の定着を妨げる効果をもたらしたことをこの結果は明示している。

「学習遅滞」と「学習速進」

 学力低下の議論は、それが「水準」低下の指摘にとどまる限り十分ではない。平均正答率に代表される「水準問題」に加えて「格差問題」の視点が不可欠である。近年指摘される学力の「二こぶらくだ」現象は後者の視点である。90年代はじめまで、海外の観察者が日本の学力の美徳として賞賛したのは、平均的水準が高いのみならずー否それ以上に、低位層の底上げによって学力格差が小さいことだった。ここでは、次のように「学習遅滞」と「学習速進」を定義づけ、抽出することによって「格差問題」に検討を加えることにしよう。
@学習遅滞:「ある学年の児童が得た得点が、1学年下の児童の平均得点を下回る」場合を1年遅滞した状態とみなす。
A学習速進:ある学年の児童が得た得点が、1学年上の児童の平均得点を上回る場合を1年速進した状態と見なす。
 ここで、「平均得点」として、2002年調査については「移行措置対象設問」を省いた設問の合計正答率を用い、また1982年調査については全得点を100%換算した数値を使っている。図1、図2は、この手続きにしたがって各学年の「学習遅滞」と「学習速進」の発生率を算出したグラフである。定義上、1年生には学習遅滞が、また6年生には学習速進は存在しない。
 図1をみると、2年生の6.1%から5年生の20.0%、6年生の17.4%へと、学年の進行にともなって「遅滞」発生率が上昇している。これは、上級学年ほど、基礎的学習内容が定着しない子どもが蓄積的に増加していくことを物語る。2割弱の6年生は5年生の平均を下回る学力のまま小学校を卒業していく。なおこの数値は、2002年データから採取した平均値を基準とした場合であって、1982年当時の平均学力水準を基準として「学習遅滞」を定義し直してやると、その発生率は3割強から4割程度に格段に上昇してしまう(図1の破線)。想像上の意味しかないが、いまの子どもたちが1982年の教室にいたとしたら、3割から4割の確率で学習遅滞というレッテルを貼られることになる。遅滞発生率を1982年と比較すると、すべての学年で2002年の数値が大きい(ただし4年生と6年生については有意な差はない)。
 他方学習の進んだ「速進」の発生率は(図2)、3年生までは遅滞と比較してずっと小さく5%以内にとどまる。低学年で1年上の学年の平均水準をこえた学力を持つ子どもはごく少数派である。ところが4、5年生になると速進発生率は2割程度まで跳ね上がる。遅滞発生率が学年の上昇とともに高まることをあわせて考えると、学力の分極化は小学校高学年で進むとみてよい。1982年と比較すると、速進発生率は、4年生を除いて大きな変化はみられない。
 ここで、「遅滞」と「速進」の発生率を合計した結果を見よう(表5)。両者の合計は、学力が上位あるいは下位に偏って、それぞれ速進、遅滞に分類される層の大きさを示す。すなわち学力の分極化の程度を示す指標と考えてよい。遅速合計比率は、両年度とも学年の上昇とともに高くなる点で共通している。このことは、学年を追って学力の分極化が進行することを示す。しかしこの分極化の程度は、どの学年をとっても1982年と比べて2002年のほうが大きくなっている。学力遅滞層と速進層の分化が、この間より鋭いものへと変化したのである。しかも、図1と図2でみたように時系列的に変化の大きかったのは速進ではなく学習遅滞の発生率であって、2002年の数値が大きくなる傾向にあった。とすれば、学力の分極化の程度が大きくなったのは、学習速進層が増加することによってではなく、学習遅滞層が増加することによってもたらされたものであることが知られる。

誰が、学習遅滞になるか?

 では、一体、どのような児童が「学習遅滞」となり、「学習速進」となるのだろうか。
 データを検討してみると、学習の遅滞と速進は、家庭学習の頻度と時間、通塾状況と密接に関係している。学力とそれらの要因との関連は次項で詳細にみることにして、まずは家庭的背景(社会階層)との関連をみておこう。
 表6は、家庭的背景の代表的指標として父母の学歴を設定し、学習遅滞層および速進層における構成比率を算出したものである。5年生の結果を示す。
 表はきわめてクリアーな結果を示している。学習遅滞層のうち高学歴家庭の比率は2割強(母高学歴の場合)から3割弱(父高学歴の場合)に過ぎず、残りの7割から8割は相対的に低い学歴層で占められる。逆に、学習速進層の7割から8割は、高学歴家庭の子どもたちが占めている。
 学力問題において議論しなければならないのは、「水準問題」のみならず「格差問題」でもある。ここまでの検討は、かつて日本の学力が保持してきたふたつの美徳ー平均的水準が高いのみならず、低位層の底上げによって格差も小さいーのいずれをも、私たちが失いつつあることを教えている。しかも、学力の分極化は、家庭的背景(社会階層)とも密接に関わって生じている。高学歴家庭の子どもたちは学習速進層に相対的に多く、遅滞層に少ないという事実は、子どもたちの学力格差が、単なる「学力」の格差にとどまるものではなく、「社会的に作られた格差」である可能性を示唆している。この意味で、学力問題や教育政策は、教育学的ないし心理学的対象から、広く社会学的検討を要する対象として位置づけられることになる。

学力を規定するもの 社会階層と個人の努力

 それでは、学力の形成を規定する要因は何だろうか。何が学力の格差を生み出すのか。日本の教育界では、児童の学力は努力の量によって決まるという側面が強調されてきた。しかし、国内外の多くの社会学者が論じるように、児童の学力は、努力だけによって決まるのではなく、家庭の経済・文化的背景が大きく影響する側面をももつ。その可能性はすでに前節でみたとおりである。学力水準が低下し格差も拡大した。しかもそれが家庭的背景による格差と密接に関わっている以上、私たちが注視しなければならないのは、学力形成をめぐる、社会階層と個人の努力の力学にほかならない。にもかかわらず、学力の規定要因としての努力と階層の関係を実証的に解明した研究はわずかでしかない。
 同じ努力をしている児童たちの間でも、学力の階層差は残るのか。努力量の多寡によって、学力の階層差の現れ方は異なるのか。たとえば、どれくらいの努力をすれば、学力の階層差をカバーできるのだろうか。こうした問題を解きほぐしながら、社会階層・努力・学力の関係を明らかにし、努力の意味や効用について再検討することにしよう。
 その際、紙幅の制約から6年生のデータに限定して結果を示す。「社会階層」(以下では「階層」と記)の分類は、「お父さんは大学を出ている」という質問に対する回答による(有効回答数476名)。児童の「努力の量」をあらわす指標は、「学校のある日に家で勉強する時間」である。いずれも児童対象質問紙調査によって得られたデータである。児童の学力の指標としては、当該学年(6学年)までのすべての算数の問題の平均正答率を用いる。

階層による学力差、努力による学力差

 まず、階層によって学力はどう異なるのか、努力の量によってどのように学力差が生まれているのかを、単純な集計によって確認してみよう。階層による学力差をみると(表7)、父大卒の児童の平均正答率が83.6%だったのに対し、父非大卒の児童の平均正答率は75.9%と7.7%ポイントの差がある。学力は高階層で高い。また、同じ表で階層による努力量の差をみると、父大卒階層の平均学習時間は50.0分であるのに対し、父非大卒階層の児童では31.5分と、高階層の学習時間が18.5分も長い。
 一方、努力による学力差を見ると(表8)、平均正答率は、家での学習時間が「15分まで」の児童で73.3%、「30分まで」80.1%、「1時間まで」83.1%、「1時間以上」86.8%である。学習時間が長い(=努力の量が多い)ほど学力が高くなる傾向がある。
 この結果は、学力が、階層と努力のいずれかと関わるのではなく、階層によって規定されると同時に、個人の努力の量とも強い関係を持つことを意味している。ここから、次のような仮説が導き出せる。つまり階層によって学力差が生じるのは、高階層で努力の量が多く、低階層で少ないことに原因があるのではないかーすなわち、階層による学力差は、努力の量の違いを媒介としてもたらされるという仮説である。  この仮説を検討するためには、精密化(elaboration)という作業を行うことになる。具体的には、社会階層が子どもの学力に影響する経路(パス)を、@階層→努力→学力(階層によって努力の量が違うことの結果として学力格差が生まれる)と、A階層→学力(努力の量にかかわらず、階層が学力を独自に規定する)に分解し、どちらの影響力が強いのかを識別する。階層独自の影響力(A)と努力を媒介とした影響力(@)はそれぞれどの程度あるのだろうか。
 表9は、努力の量を統制したときの階層による学力差を示したものである。父大卒の児童と父非大卒の児童の平均正答率の差は、学習時間が「15分まで」のグループでは12.4%、「30分まで」5.5%、「1時間まで」2.5%、「1時間以上」4.2%である。同じ学習時間(努力)でも、階層による学力差が残っており、高階層ほど学力が高く出ている。ただし、階層差は努力をしていないグループに強く残り、努力をしているグループでは差が小さくなる。
 表9から、いまひとつの興味ある事実を読みとることができる。階層によって、学力に対する努力の影響力が異なるのである。学習時間が「15分まで」のグループと「1時間以上」のグループとの平均正答率の差は、父大卒階層の児童たちに限って言えば10.0%ポイントである。父非大卒階層の児童の間では、この差は18.2%ポイントと大きい。データは省略するが、相関係数を見ても、父非大卒階層のほうが学習時間と学力の相関が強い。つまり、父大卒階層より父非大卒階層で、努力による学力差が強く現れている。基礎学力を測るテストでは、父大卒の児童においては、努力が少なくても一定の学力が保証されている。一方、父非大卒階層では、あくまでも努力を媒介として、学力が形成されるしくみになっている。フランスの社会学者ブルデューが述べたように、低階層の児童が学力を獲得するためには、高階層の児童であればそれほど必要とはならない「学校的努力」が不可欠なのである。

高学歴層の「初期的優位性」と非大卒階層の挽回可能性

 ここまで確認した、階層・努力・学力の間の関係は、回帰分析といわれる手法を適用することによって、ずっとビジュアルに表現できる。簡単にいえば、努力(学習時間)をx軸に、学力をy軸とした平面上にひとりひとりの児童をプロットする。そして、努力と学力の関係をできるだけ単純な直線で描く。この作業を階層別に行い、相互の違いを観察するのである。回帰分析によって、階層別に努力(x)と学力(y)の関係をグラフ化したのが図3である。このグラフには、階層別に、y=ax+b(a:傾き=努力の増大が学力の向上にもたらす影響の大きさ、b:努力量0の時の推定学力)という単回帰式が表現されている。  グラフをみると、第一に、努力量ゼロのときの学力の推定値(y切片)に階層差がみられる。家で勉強しないと仮定したときの児童の推定正答率は、父大卒階層の場合は80.4%、父非大卒階層は70.1%と、10点以上の差が認められる。この差は、努力を媒介とせずに、階層が直接的に学力を規定する力の大きさである。学力形成における、父大卒階層の「初期的優位性」といってよい。そして、父非大卒階層の児童が、父大卒階層のもっているこの初期的優位性をカバーするためには、つまり家で全く勉強しない父大卒階層の児童の学力水準80.4%に達するためには、51.7分の学習時間(努力)が必要である。  第二に、階層別のふたつの直線が交わる点に注目してみよう。父大卒階層の傾きは0.07、父非大卒階層の傾きは0.20であり、これは、家庭で100分勉強量を増やせば、それぞれ7点(父大卒)、20点(父非大卒)の学力向上が期待できることを意味する。ふたつの直線が交わる点は、父非大卒階層の児童がどれだけ努力をすれば、初期的優位性をもった父大卒階層の児童に追いつくことができるのか、それに必要な学習時間を表している。図に示されたその答えは約80分、正確には79.5分と推定される。しかし、学習時間の平均が、父大卒階層の50.0分に対し、父非大卒階層は31.5分だったことを考えると(表7)、このようなレベルに達することのできる父非大卒階層の児童は少数であると推測せざるを得ない。
階層差を小さくするふたつの道

 こうして、父大卒階層の児童は、父非大卒階層に比べて、基礎学力における初期的優位性を有し、努力が少なくても一定の学力が保証されている。一方、父非大卒階層は、努力を媒介とすることによってはじめて、高学歴階層の学力水準に近づく。つまり、両者が同じ学力に到達するためには、父非大卒階層の児童のほうがより多くの努力を必要とする。
 このことは、いかにして学力の階層間格差を縮小させたらよいのかに関して、ふたつの方法があることを教えている。第一は、高階層が保持している初期的優位性を小さくする方法。第二に、低階層の子どもたちの努力の可能性を高める方法である。初期的優位性は、学力の修得が、はじめから高階層の子どもにとって相対的に容易となるような性質を、学力が潜在していることに起因する。とすれば学力獲得をめぐる競争は一見平等であるように見えて、じつは競争以前に有利不利が決まっている不公平なレースに他ならない。この点の克服は、教育内容と教授過程そのものの見直しを要請する。だからその解消は、まさに解決すべき課題(不平等問題)であり、容易なことでは実現できない。いまひとつの、低階層の子どもたちの努力の可能性を高める方法についても、努力可能性が家庭の文化的環境に依存すると考えられるだけに、同様に困難な課題である。
 では学校は、学力の階層差を小さくするはずの、この二つの道を開くことが可能だろうか。

「見える」ペダゴジーと「見えない」ペダゴジー

 この問題に対する示唆を得るために、担任教師に着目し、かれらの学習指導・評価の方法を教室場面の「ペダゴジー」(pedagogy)という観点から整理して、子どもたちの学力と努力に与える影響を検討しよう。  ペダゴジーとは、イギリスの教育社会学者バジル・バーンスティンの理論の中核をなす概念で、教育課程の編成から授業場面に至るまでの「教える営み」の総体を意味する。ペダゴジーには、大きく分けて「見える」ものと「見えない」ものがある。見えるペダゴジーは、いわゆる伝統的な学習指導・評価タイプを表し、学習内容や進度が厳格に定められたカリキュラム、教科書中心・教師主導型の授業、テスト結果等の明確な基準に基づく評価をその特徴とする。学習者が「なぜ、どの目標に向かって学習するのか」が可視化されている点が「見える」という名称のゆえんである。もうひとつは、教授者の意図や評価基準が容易には「見えない」ペダゴジーである。それは、教科横断的なカリキュラム、子ども中心主義的な授業、子どもの活動に現れた発達の多面的・包括的な評価によって特徴づけられる。
 バーンスティンは興味深い指摘をしている。彼は、いずれのペダゴジーにおいてもミドル・クラスが有利である、しかし見えるペダゴジーでは、学習の目的や内容、学業達成の度合いが可視化されているために、努力によって階級間の格差を越える可能性が残されているという。他方、見えないペダゴジーの下では、労働者階級の子どもたちほど学習活動を主導する原理を認識することが難しいため、子どもの居心地は良いが、階級間の学力格差がますます拡大するのだと説明する。
 90年代以降の教育改革(ゆとり教育と新学力観)は、揺れ戻しが一部に見られるとはいえ、基本的には「見える」から「見えない」ペダゴジーへの移行を志向したものだといってよい。かつてバーンスティンは、日本に先駆けて同様の変化を経験した60年代イギリスの教育改革を振り返り、ペダゴジーの転換がミドル・クラスにより有利な結果をもたらしたと総括している。日本版ペダゴジーの転換はどうだったのか。

ペダゴジー、学力、努力

 今回の調査では、普段心がけている授業のあり方や評価の際に重視する点を担任教師に尋ねている。その回答結果を用いて、授業・評価タイプを「見えるペダゴジー志向型」「見えないペダゴジー志向型」「混在型」という三つの類型に区分した。ペダゴジー類型ごとに学力の階層差を比較したのが、表10である(混在型は表で省略)。  表から、算数の学力における階層差は、見えないペダゴジー志向型のクラスに在籍している児童のほうが大きいことがわかる。見えないペダゴジーのもとでの学力の階層差は、見えるペダゴジーの2倍以上となっている。努力の指標である学習時間を見ると、階層差は逆に見えるペダゴジーで大きいという結果が出ている。しかしこれは、見えるペダゴジーに在籍する児童のほうが高学歴者が多く、しかも学習時間がずば抜けて長い受験塾通塾者が多く含まれていることに起因する。受験塾通塾者を取り除いたデータを比較すると、学習時間においても見えるペダゴジーのほうが階層差が小さい。
 さらにこの表で着目すべき点は、ペダゴジーの効果が高学歴層と低学歴層でまったく逆の効果を及ぼしていることである。高学歴層では見えないペダゴジーのほうが平均点が高くなるのに対し、低学歴層では見えるペダゴジーのほうが平均点が高い。見えるペダゴジー志向型の学級で学力の階層差が小さいのは、このペダゴジーが低学歴層の学力をひきあげる効果をもつためだと思われる。バーンスティンの指摘が、日本の文脈でもあてはまる可能性がある。
 以上の検討は、教師のペダゴジーと学力の関係を示唆しているものの、努力との関連が明確ではないことなど、なお検討の余地を残している。しかしながら、これまで必ずしも明確ではなかった次の点に関して一歩進んだ知見を提供してくれる。第一に、子どもの学力形成には、教育内容のみならず、それが伝達される過程の様式=ペダゴジーが関わる。この意味で、どんな知識が教えられるかだけが重要なわけではない。どう知識が伝達されるのかも学力を左右するのである。第二に、見えないペダゴジーは見えるペダゴジーに比べて、学力における子どもたちの階層差を拡大する可能性がある。すなわち見えないペダゴジーへの転換を基調とした教育改革は、学力の階層差を広げたおそれがある。第三に、階層差を縮めるには、見えるペダゴジーが有効かもしれない。
 ただ最後の点については慎重な検討が必要となる。見えるペダゴジーの重視は、低階層の学力を底上げすることによって、学力格差を小さくする。それはたしかに、学力の「格差問題」を縮小する結果をもたらすかもしれないのだが、同時に「水準問題」を解決する手段とはなっていない。「見える」か「見えない」か、どちらのペダゴジーが望ましいのかという二分法的な問題の立て方自体が、誤謬を生んでしまうのかもしれない。

EQuality = Equality(平等) + Quality (質)

 すべての教育行政が念頭におくべき基本的な原則がある。それを一言で表現するならば、EQualityである。Equality(平等)とQuality(質)の合成であるこの言葉が意味しているのは、教育システムを運営し、維持していく上で、平等な教育と質の高い教育成果の双方が達成されなければならないという原則にほかならない。教育における卓説性の回復を通じてその国家的危機を脱しようと目論んだ80年代アメリカの教育改革が、最後に行き着いたのは、EQualityだった。卓越性を追求しなければグローバルな競争の中で生き残っては行けない、だが同時に平等も追求しなければ社会を維持することが困難となってしまうだろう。それはそのまま、いまの日本の教育システムにもあてはまる。
 このレポートを執筆するにあたって、私たちは論点を絞り込んで問題を提起することを選んだ。そのとき念頭においたのはEQualityの基準だったといってよい。レポートの冒頭で確認したのは、1982年から2002年にかけての小学生の算数の学力の低下傾向である。この低下のある部分は、教科書の簡素化に代表される、教育内容の取り扱いに関わる行政施策が、引き起こした可能性がある。ゆとり教育や新学力観が教師たちの伝統的なペダゴジー(教授方法)をも変えたことを考えると、教育行政がもたらしたマイナスの貢献は、本稿で推定した以上にずっと大きなものであっただろう。これは、学力問題の検討の視点を、主としてQualityにおいた議論である。
 だが私たちが提起したかった、より重要な問題は、Equalityの達成に関わっている。学習遅滞と速進の発生率の検討から、学力格差の拡大傾向が見えてきた。この学力格差は、家庭的背景(社会階層)と密接に関わる。
 子どもたちの学力形成には、たしかに「努力」が影響する。努力すれば学力が上がるという関係が明白にある。だが同時に家庭的背景もまた、ふたつの経路を通じて、子どもの学力を規定する。ひとつは、高階層の子どもほど努力量が多くなるという、努力を媒介とした経路を通じて。いまひとつは、基礎学力の獲得においてはじめから高階層の子どもが優位に立っているという、家庭的背景が直接学力を規定してしまう経路を通じて。努力はたしかに効用をもつ、しかし同じ学力に到達するためには、低階層の子弟により多くの努力を強いるのが、いまの日本の学力社会の構図である。単に機会を平等にしても、それだけでは家庭的背景による学力の差異は解消されない。もうひとつの、機会の均等をこえた積極的な「平等」施策が必要なことを示唆する。
 その施策は、学力の初期的優位性を持たず、また努力を促す家庭環境にも恵まれない子どもたちを逆差別的に処遇し、彼らとその家族を積極的に支援する(さまざまな資源を投下する)ものとなるはずである。この意味で、教育を競争的な市場の中に放り込んで、敗者ではなくその勝者たち(卓越した学校や子ども)に積極的な資源投下を行おうとする政策とは対極をなす。
 学力低下論という、その名が指し示すように、メディアと人々の関心は、Qualityに偏りがちである。文科省が矢継ぎ早に繰り出している学力対策事業の多くの焦点も、教育の質の回復に置かれている。だからこそ、Equalityの視点からの事実の観察と改革方策の提示が重要である。階層問題を忌避する日本社会の風潮は、人々の関心をこの問題からそらせ続けてきた。文科省にいたっては、教育における階層問題が日本社会にはまったく存在しないという世界観に支配されているとしか、私たちには思えない。
 学力の社会的格差が大きくなっていったとき、どのような日本社会の変貌が予想されるのか。そしてその隘路からどうしたら脱出できるのか。残念ながらこれ以上この問題に言及している余裕が小論にはない。ただいえるのは、日本社会が教育のみならず総体として進んで行こうとしている階層化社会への道を遮断する手段として、教育は有効なはずだということである。教育の世界に階層問題はないことを装う教育行政は、この可能性を放棄し続けるだけでなく、階層化に教育を加担させ続けてしまうことになるだろう。


みみづか ひろあき 1953年、長野県松本市生まれ。お茶の水女子大学文教育学部教授。教育社会学。東京大学大学院単位取得退学。編著書に『変わる若者と職業世界 トランジッションの社会学』『高校生文化と進路形成の変容』など

かねこ まりこ 1969年、東京都生まれ。東京学芸大学教員養成カリキュラム開発研究センター専任講師。教育社会学。東京大学大学院博士課程単位取得退学。主著に「教室における評価をめぐるダイナミクス−子どもたちの行動戦略と学校適応」『高校生文化と進路形成の変容』など

もろた ゆうこ 1963年、鹿児島県鹿児島市生まれ。お茶の水女子大学大学院人間文化研究科博士課程在籍。教育社会学。主著に「進路としての無業者ー教師の認識と指導『理論』」など

やまだ てつや 1973年、沖縄県那覇市生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程在籍。教育社会学。主著に「不登校の親の会が有するペダゴジーの特質と機能ー不登校言説の形成過程に関する一考察」(近刊)など



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