お茶の水女子大学教育社会学研究室
Sociology of Education

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耳塚寛明 書評集
門脇厚司・陣内靖彦編『高校教育の社会学』東信堂

 高等学校を主題とした、教育社会学の研究者による書籍が2冊、相次いで刊行された。いずれ も、筑波大学の門脇厚司教授を中心とする高校問題研究会が、昭和58年から継続的に行ってき た調査研究の成果である。本書はそのうちの1冊で、姉妹篇『高等学校の社会史』が、現在の高 校問題を新制高等学校制度の発展過程のなかに辿る「歴史篇」であるとすれば、本書は高校の 「いま」を直接観察することによって問題の構図を浮び上がらせることを意図した「現状分析篇」で ある。
 この本は、5人の研究者と3人の現職高校教員が、主に神奈川県の新設高校を対象とした継続 調査の結果を使って各々の関心から書き上げた論文集だが、その共通のテーマはずばり「教育 困難校」にある。神奈川県が有名な「高校百校新設計画」をスタートしたのは昭和48年、計画は 昭和62年に達成される。この計画は、広範囲にわたる高校教育機会を整備するものであったが、 だが同時にこの過程でつくられたのは、学力や進学実績によって精緻に序列づけられた高校の 階層構造であった。とりわけ、毎年数校ずつ創設された新設高校を待っていたのは、底辺校、教 育困難校としての運命であった。
 高校の階層システムは、中学校での合格至上主義の進路指導と受験産業、神奈川方式といわ れる独特の高校入試制度などが複合的に働きあって、ますます強固で精緻なものとなってきた(3 章)。底辺校として位置付けられた新設校では授業という形を維持することすら困難となる。「授業 中は、ほとんど休み時間と変わりありませんでした」 底辺校での生徒は、何かを主体的に学ぶこ とを放棄する態度こそを学んでいる危険がある。そして教師はより本質的な問いをつきつけられ る。「人間はどうして勉強する必要があるのか。どうして勉強させる必要があるのか。」初歩的なだ けに深刻な問いである(4章)。
 問題行動の多発は、教師の生徒認識の悪化、生徒指導の厳格化を招く。それが生徒からの反 発を大きくし、翻って教師の生徒認識を悪化させるという悪循環が存在する(5章)。生徒集団内 部にもこれに似た「相互悪評効果」が働く。底辺校の生徒たちは、お互いにクラスメイトを駄目人 間とみなしあい、その結果勉学やクラブ活動などさまざまな活動に意欲を減退させ自堕落になっ ていく。こうして教師の熱意や努力は空振りに終わるか、あるいはより積極的に生徒の外傷体験を 増長させる、意図せざる結果を招いてしまう(6章)。
 紙幅の都合上すべての知見をあげることはできないが、多くの章で共通して目指されているの は、教育の過程で教師の意図に反して予期せざる結果が現れてしまう「潜在的側面」の発見であ る。よかれと思う意図や努力は、おうおうにして「こんなはずじゃなかった」逆効果を生む。教師の 熱意や努力を徒労に終わらせる”見えざるメカニズム”、その理解こそが、遠回りのようでいて実は 実践的な関心に応えるべき近道である。
 潜在的側面への関心は、同時に、大多数の教育論が陥いるワナ、すなわち学校教育問題のす べてを「教師がんばれ!」の掛け声一発で解決しようとしてしまうという陥穽を免れることを可能とし ている。問題をかかえる現場の教員にがんばれと元気づけるのは正論ではあっても、無力にひと しい。むしろ問題の原因を個々の教師の資質、熱意、努力の欠如にすりかえることによって、教師 たちの意欲をおおいにそいでしまう。
 本書の議論にはやや強引な箇所、つきなみな解釈がないわけではないが、教育の潜在的な過 程への着目と「脱・教師がんばれ読本」を目指した姿勢は、いずれもこれからの教育科学が重視 すべき方向だろう。じつは、「がんばれ!」と教師を元気づける教育書よりも、一見冷たい本書の ほうが、教育関係者の味方である。

以上

1996年12月5日


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