お茶の水女子大学教育社会学研究室
Sociology of Education

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耳塚寛明 書評集
黒羽亮一『学校と社会の昭和史』(上下巻) 第一法規

 正直なところ、紹介しにくい、けれどもユニークな本である。著者自らの解説に、「(戦前期から) 昭和40年ごろまでの学校と社会の関係の概略を知るための『索引的な』本」とある。
 上下2巻、計650ページを越える大変な大著である。上巻は、戦前戦中期、下巻は戦後30年 代までを扱っており、上巻はさらに学校種別ごとに記述した前半部と、課題別(たとえば思想教 育、経済と科学技術)の後半部に分かれている。
 著者は昭和3年生まれで、現在(国立)学位授与機構教授。なぜこのような本を著し得たかは、 黒羽氏の経歴−新聞記者、大学教員、政府・自治体審議会委員など−を知ることによって、はじ めて首肯することができる。黒羽氏が新聞記者として教育問題を取材し、執筆するようになった昭 和33年から、昭和のおわりまでちょうど30年。この間に集まった書籍や資料は置き場に困るほど の膨大な量になり、それらを材料として「昭和の教育」を、社会の動きとの関わりの中でまとめたの が、この本だという。
 本書の特徴を、著者は次のようにまとめている。
(1)扱われている事項の多くは学校教育史や教育政策史に含まれるが、その一部分でしかない。 昭和教育史の概説ではなく、独自の観点から取捨選択がなされている。
(2)人生経験と職業生活で身につけた見方や切り口で書かれている。
 昭和教育史の概説ではなく、それが独自の切り口から書かれているというところに、この本の最 大の「個性」をみることができる。
 では、この個性は、もっと具体的にいえば何だろうか。どんな切り口だろうか。
 この本を読んで第一に気づくのは、「戦前期におけるマルクス主義と超国家主義の対立」(上 巻)あるいは「戦後における政府と日教組との葛藤」(下巻)に焦点づけた記述が多いことである。 しかし、この本の個性は、そうした偏り以上に次の点にあるように思う。つまり著者は、単なる概説 ではなく、恣意的な取捨選択を加えたというが、その恣意性を貫く「隠れた一貫性」ないし「隠れた 問題意識」が明瞭に認められる点である。
 隠れた一貫性を一言でいえば、「昭和の連続性」である。戦後の昭和の背景に厳として横たわ る戦前の昭和。戦後の教育を縛り、拘束し、その一方で戦後を可能にした礎ともいえる戦前の教 育。そうした「戦前」の再発見が、本書を貫く隠れた課題意識だといってよい。
 このことは、「歴史」なるものに普遍的な現象であり取り立てて指摘するまでもないと思われるか もしれない。だが必ずしもそうではない。というのは「教育勅語体制から教育基本法体制へ」という のが、戦前から戦後への教育を語る常套句であり続けているからである。とくに教育については、 昭和戦前期から戦後への動きは、連続性よりも断続性を基本的視角として把握されることがふつ うだった。このことをあらためて思うとき、本書の視点は当然のように思えて実はユニークである。
 索引的な本とあるから、無作為にパッと開いたページに目を走らせてもよいし、もちろん目次を 索引として辞典を引くように「調べて」もよい。事実、概説的ではないというものの、あるいは概説で はないがゆえに、「いま」の教育問題・争点のルーツと展開について、本書はその大部分をカバー し得ている。
 しかしこうした辞典的使い方をしていても、気づいてみると索引項目を越えて読んでしまう。私 自身も、はじめある項目を調べようと思って読み始めたのだが、いつのまにかずいぶんと読まされ てしまった。ボリュームと装丁からは想像できないほどこの本は読みやすい。平板な概説ではな く、黒羽氏の視点によって料理された歴史のリアリティがそこに描かれているためだろう。教育を 長い期間にわたって観察してきた職業生活のたまものではないかと思う。


以上

1996年12月5日


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