お茶の水女子大学教育社会学研究室
Sociology of Education

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耳塚寛明 書評集
西山明・田中周紀/著 『さなぎの家 いじめのパワーゲーム』 共同通信社/刊

 1993年4月、大阪で、中学3年生の少年が同級生2人に3時間半にわたり暴行を加えられ、さ らに性的な屈辱まで受けて殺害される事件が起こった。プロレスごっこのはてにいじめ殺された少 年を、マスコミの報道によって記憶している読者は多いに違いない。あるいは、次から次へと押し 寄せる事件の波の中に、忘れ去ってしまった読者のほうが多いか。
 この本は、共同通信社を通じて地方紙に連載された記事を元に、記者2人が再構成・加筆した ものである。全体は6部から成り、第1部から第3部が、いじめ=いじめられ事件の3人の主人公 (剛、新一、稔、それぞれ仮名)にスポットをあてた取材記録、第4、5部が、斉藤学氏(精神科医) と山田洋次氏(映画監督)へのインタビュー、第6部が新聞連載後談をまじえた、記者によるまとめ である。
 土曜日の午後の市営住宅の一室、加害者剛の部屋。呼び出された稔は、幾人かの同級生を 観客として、興奮した剛に、なぐられ、蹴られ、投げ飛ばされ、技をかけられる。マスターベーショ ンの強要をはさんで執拗な暴力に、いつか稔は仰向けの状態のままいびきをかきはじめる。この あたりの叙述は凄惨、というより気味の悪さを感じて、もう読み返したくはない。リアリティの再構成 は迫力があり、成功している。
 この本に提示されているのは、入念な追加取材の結果である。加害者とその家族に光があてら れるだけでなく、被害者とその背景、学校にも容赦ない記者の追求が及ぶ。
 なぜこうした陰惨な事件が発生してしまったのか、いじめ=いじめられ関係とはなんだろうか。 いくつもの視点があらわれるが、なかでも本書の特徴は、第一に「いじめ=いじめられ関係」を「パ ワー(権力)ゲーム」と見なし、このゲームを演じた加害・被害少年たちを「アダルト・チュルドレン」 (AC)の概念によってとらえ、ACの出現をアルコール依存症の家族によって説明しているところ にある。
 アダルト・チュルドレンという概念は私たちには耳なれないが、一見良い子だが力(パワー)に敏 感な子を指すという。同級生や他者と、同じレベルの相互交流的な関係を作れず、自分が下にな って相手を立てて従属・依存するか、あるいは上から相手を制圧・支配するかのいずれかでしか 他者と関係を結べない子どもがACである。こうした関係をつくろうとする過程で、洗練された形で 他者の尊敬を得ようと努力すれば世間的には「良い子」「秀才」となるし、ひたすら権威・権力を手 に入れようとすると暴力団風の上下関係ができてしまう。
 ACは、酔っぱらったときには「力」を誇示し、翌日になるとコロっと従順・穏和になることを繰り返 す、アルコール依存の父親の存在が作り出すものだという。パワーゲーム、アダルト・チュルドレ ン、アルコール依存症という3つの鍵概念による事件の解読は、今回のいじめ事件が当の3人、3 家族に特殊なものではなく、私たちの社会が普遍的に持っている危険であることを、説得的に教 えている。
 批判は甘受するが積極的に動こうとしなかった閉鎖的な教員集団に対する批判も、容赦ない。 このあたりのスタンスに教育現場の論理と悩みを理解していないと不満を持つ読者も多いだろう。
 ただ、学校は子どもを救えるかという問いを受けとめたとき、記者たちが学校にぶつけた批判 は、学校への切なる願い、期待として理解する必要があると思う。取材に応えたある教員が次のよ うに述べている。最後に引用を許してほしい。「ホンマは家ですよ、やっぱり。なんぼ教師が一生 懸命やっても、親の代わりは果たせない。そうでありながらやっぱり学校は『最後の砦』なんです よ。...教師が『もうやれんわ』言うてやる気なくしたり、投げてしまったら、もう子どもは救われない。」


以上

1996年12月5日


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