お茶の水女子大学教育社会学研究室
Sociology of Education

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耳塚寛明 書評集
別冊宝島【プロ教師・読本】Vol.2 『プロ教師の学校大論争!』宝島社

 本書の中でも紹介されているが、プロ教師の会原作の映画に『ザ・中学教師』(アルゴ・プロジェ クト作品、平山秀幸監督、1992年)がある。ビデオを家族と見て感涙にむせび、我が意を得たりと 拍手をおくり、巻き戻して繰り返し見てはため息をついた。何度見てもおもしろい。
 この映画を大学のゼミの教材に使っている。具体的な反応はさまざまだが、私の意図に見事に はまってくれる学生が多い。学生はまず憤り、主人公の中学教師に批判の目を向ける。それは、 映し出されているのが、教師と生徒の信頼関係に基礎づけられ、人間性あふれる心の触れ合い によって展開していく、あの「先生」モノとは大きく異なるからである。学生の反発は、私たち自身 の奥深いところに植え付けられている、「ロマンチック教育学」に根差している。それは教育を、崇 高な人間性を備えた「教師」(人生の師!)と無限の発達可能性を秘めた「子ども」との愛情あふ れる神話として定義してきた。
 大学は、神話や宗教を教授する教会ではない。だから私のゼミでは神話に毒された自己を発 見し、透き通った目で事実としての教育を把握できるように学生に刺激を与える。ロマンチック教 育学の分厚いベールを剥いだところに何が見えてくるのか。その刺激として最適の映画がザ・中 学教師にほかならない。映画のポイントは、制度的に定義された教師という役割をもっとも真摯に 演ずる主人公の姿である。日常的な学校生活の中に、これだけ教育の基本的な枠組みを照射し て見せてくれるメディアを私は知らない。まさに、現場のリアリティ観察に依拠した、「教育の社会 科学」である。
 前置が長くなったが、同じプロ教師の会の手になるこの本に貫徹しているのも、ロマンティック教 育学を脱皮した、事実から発想された教育の社会科学である。執筆者は、諏訪哲二、河上亮一、 藤田敏明ほかおなじみのプロ教師の会の諸氏。多くは埼玉県下の公立小、中、高校教師である。  本書で取上げられている「大論争」のテーマは、次の5つである。パート1「偏差値という悪役」 (埼玉偏差値戦争)、2「給食論争の不毛」、3「登校拒否・退学・校内暴力」、4「学校5日制の背 後」、5「『新しい学力観』とは何か」。各パートとも数本の、!や?の付いた刺激的なタイトルが並 ぶ。たとえばパート3。非行生徒を現行犯逮捕させるのは教育的である! 登校拒否は親や教師 の病気でもある 登校拒否児は、入試の面接でシニカルな大人の「笑み」を浮かべた 退学の 価値を教えることも、教師の仕事である! 登校拒否が解決できないのは、人類史的な必然であ る。
 これだけを見ると、ラディカルでとんでもない「際物」的読み物を予想させるが、ぜひ読んでみて ほしい。当たり前のことが論理的に語られているに過ぎない。その論理必然をそのままタイトルに したら、超過激に見えてしまうのはどうしたことだろう。ロマンチック教育学の圧倒的影響力が、この 本をラディカルに見せてしまう。
 取上げられている論争のテーマは一見ばらばらだが、しかし「学校のソフトスクール化」という大 きな流れとなって、教育の基本状況をかえるターニング・ポイントを構成している。エピローグから 印象的な1節を引用しておこう。「現在進んでいる教育改革のエッセンスは決して否定できない が、ことによるとその延長線上に『教育の喪失』があるのではないかという不安は消えない。それは 教育改革を進めている行政側やそれを支える研究者たちに、強固な原理や哲学がうかがえず、 ひたすら福祉国家イメージにふりまわされた行政の論理と安直なヒューマニズムばかりが透けて 見えるからでもある。」
 私自身本書でさかんに批判される教育研究者のひとりだが、現在の教育改革の行く手に、社 会化機能を喪失した学校の姿が浮かんでならない。

以上

1996年12月5日


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