| Sociology of Education
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新堀通也『私語研究序説 現代教育への警鐘』玉川大学出版部
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周知のように、大学の世界で、それもいわゆる一流大学の教室でも、学生の私語に悩む教員が 多数いる。大教室ではときとして学食にでもいるようなざわめきの中で講義が進行するという。 大学教員は私語にいかに立ち向かっているのか。評者の大学の学生によれば次のようなタイ プがある。1)おたく型(うるさくてもマイペースで授業を続けるオタッキー教員)、2)おろおろ型(私 語は自分のせいだと思って、早口になったり汗をかく)、3)雷おやじ型(静かにしろ!と一喝)、4) 出て行け!型、5)自分で「出て行く」型、6)逆襲型(単位や評価をちらつかせて注意)、7)視線型 (視線で注意)、8)沈黙型(静かになるまで沈黙)、9)お願い型(「ごめん、ちょっと静かにしてくれ る」)など。 この本の著者新堀教授は、高等教育を中心に、未開拓のかつ日常的な題材を次々と学問対 象として発掘し、その考察をとおして教育や時代の本質に迫ってきた教育社会学者である。本書 『私語研究序説』も、日常的な現象である「私語」に着目し、学問的な考察の対象にまで昇華させ た成果である。大学生の私語を研究テーマとして焦点的に取り上げて書物にまとめたのは、本書 がはじめてではないかという。 著者はいう。大学生の私語は決して大学の教室の中における現象としてのみとらえるべきでは ない。大学以前の教育、大学を取り巻く社会、日本文化の問題であり、現代日本の教育への問い かけ、警鐘である、と。本書は教員にとっての、私語対策を教えるハウトゥ読本ではない。現代日 本の教育的問題状況の象徴として、私語をとらえる立場が貫かれている。では、私語が象徴的に 指し示しているのは、いったいどんな事実・問題なのだろうか。 たとえば、いまや私語は高校よりも大学のほうが著しいという。この事実は、大学と高校以下の 教育機関の性格の相違を象徴的に暴いてくれる。高等学校は研究機関ではなく教育機関として 自己規定しており、私語を規制する管理体制が整っている。教師は「分かる授業」の実現のため に熱意と努力を傾注し、授業研究、指導法開発も多年にわたって行われてきている。他方大学は どうかといえば、そもそも自己を研究者としてではなく教育者として規定する者は少なく、したがっ て授業研究や指導法に留意する教員は稀である。私語に悩み、学生を非難する大学「教員」の 存在は、いったい大学の使命が研究にあるのか教育にあるのかという、大学の本質にかかわる問 題を露呈させる。彼らを大学「教員」と呼ぶのは言語矛盾ですらある。 だが、困難とはいえ大学教員が、自己の役割を研究のみならず教育に求めて改心したとして も、私語の世界は大学を席捲し続けるだろう。大学教授の世俗化・大衆化を含めて、教育機関と しての大学の脆弱さのみが私語を増大させているのではないからである。そうした私語を蔓延さ せる要因として著者が考察の対象としているのは、子ども天国=許容社会の存在(しつけなき社 会)、学校から失われた子どもの統制力、反マジメの風潮、さまざまな不本意症侯群、情報化社会 が生み出す反主知主義の台頭、大学での教養・専門的知識と職業生活の乖離などである。 18歳人口の急減によって支配的となる学生消費者主義の到来は、すさまじい学生獲得競争を つうじて、学生のニーズにこたえる「教育」を大学人に要求するようになる。この事態に適応できな い大学教員は、ますます私語に圧倒されることだろう。こうしてさまざまな背景をもつ教室の危機 は、私語に象徴的に現れる。 ここ数年間に私語をあつかった、新聞や雑誌に掲載されたルポルタージュやエッセイが豊富に 引用されている。それが大学生の「私語の世界」を迫力あるリアリティとして読ませてくれる。私語 をテーマとした著者の考察は、現代日本の教室の危機とその背景を象徴的に見せてくれる。文字 どおり、「私語」は「語る」のである。 以上 1996年12月5日 |
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