お茶の水女子大学教育社会学研究室
Sociology of Education

|発言| シラバス |卒論・修論|耳塚寛明 経歴と業績|耳塚寛明書評集|大学院  院生紹介 OGの進路|

耳塚寛明 書評集
諏訪哲二『反動的!学校、この民主主義パラダイス』JICC出版局

 著者は1941年生まれ、学園闘争、ヴェトナム反戦闘争を経験し、現在「プロ教師の会」を率い る高校教員である。
 のっけから恐縮だがやや長文の引用を許してほしい。「学校というところは本質的にダーティな ところなのだ。... 教師たちは、生徒たちの頭上に暴力的に現れて彼らを支配するのである。」「生 徒が教師の行う指導を受け入れようとしない場合、教師は『はい、そうですか』と引き退がるわけに はいかない。教師と生徒の間の暴力性が表面化しないのは主として生徒が引いているからであ り...生徒が引かなくなったとき、教師−生徒間の暴力的関係性があらわになる。...それは教育の 本来的な姿から逸脱したのではなく、教師と生徒の関係性の本質が顕現したというべきなのだ。」
 「権力存在としての教師」を著者は、読者の期待どおり(?)否定しようというのではない。それ 自体著者がたどりついた、学校、教師の論理にたった結論であり教育の前提である。たとえば授 業は「体系化された知」の伝達だが、それが単なる知識の集積ではない以上、一定の価値観の押 しつけである。ゆえにその押しつけを行う教師は、先験的に権力性を持ち、本質的に暴力的な存 在である。権力的存在としての教師の否定は、学校や教育そのものの否定につながる。教師の権 力は、近代社会が組織的教育を必要とするところに由来する。
 こう書くと何やら教育書のタブーに触れるようで評者自身ひやひやするが、本書はどう読んでも 「反動的」ではなく、タイトルは明らかに「反語的!」である。多くの教育書は事実を視ること、幻想 の幻想性を暴露することをタブーとする。それが人々に「幻想の美談」としての教育像を植え付け てきた。著者の主張は、それらに対する衝撃的な解毒剤となるだろうし、何よりもそこから発想され た実践のみが、長期的にみて有効性を持ちうる。
 公教育の教師である限り、社会の代表者として生徒たちに文化を押しつけ、また学校の秩序性 や権力性から無縁であることはできない。著者はいう。「問題は、そのような立場性を通じて何をす るか」だ。本書の読後もなお、著者を反動的だと断じる人々はいるだろうか。

以上

1996年12月5日


教育社会学研究室トップへ戻る

お茶の水女子大学お茶の水女子大学ホームページ運営指針文教育学部人間文化研究科(博士前期)人間文化研究科(博士後期)研究室へのお問い合せ

Copyright(c) お茶の水女子大学 All Rights Reserved.