お茶の水女子大学教育社会学研究室
Sociology of Education

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耳塚寛明 書評集
諏訪哲二『日の丸』JICC出版局

 著者諏訪哲二氏は、「プロ教師の会」を率いる現職高校教員。前著『反動的! 学校、この民 主主義パラダイス』では、民主主義的といわれる戦後教育の陥穽を大胆に指摘して度胆を抜い た。いわく「学校というところは本質的にダーティなところなのだ。・・・教師たちは、生徒たちの頭 上に暴力的に現れて彼らを支配するのだ。」
 「権力存在としての教師」を前提とし、正しい「管理教育」の必要性を説いた主張に、胸のすく思 いをした読者がいるだろう。同時に大いなる反感を感じて憤った読者はなお多いにちがいない。 既存の教育関係書のタブーに触れる言説は、幻想の美談に彩られた戦後民主主義教育に対す る、衝撃的な解毒剤を提供してくれたように思う。
 その諏訪氏が、筒井康隆氏のベスト・セラー小説『文学部唯野教授』の形式を借りて発表した 作品が、『日の丸』である。
 この小説は「どこにでもある公立の普通科底辺校・県立岡本高校の教師と生徒の実態を描いた 実録パロディー小説」である。現在のニッポンの高校の実像を伝えるのに、もっとも適した表現形 式が唯野教授だという。冒頭の「おことわり」にこうある。「立身出世に邁進する大学教官よりも、出 世を望まず”普通の価値”を追い求める日本の高校教師たちのほうがパロディの素材としてはるか に優れているばかりでなく、彼らの存在そのものが、現在の日本ではパロディ以外のなにものでも ないからです。そのことに触れずして、日の丸も、学校も、教育も語ることはできません。」
 朝8時10分、物語は岡本高校生徒指導部長村上英二教諭の、通勤風景からはじまる。村上は 全共闘運動のズブズブの敗北の底からぬけ出して、何とか教員社会にもぐりこんだ経歴を持つ。 脱色してソバージュをかけ、ぞろっとしたスカートをはいた3人組みに出会って苛立つ。立場上彼 は生徒を注意しなければならないが、どんどん違反する生徒が出てきてきりがない。加えていまど き校則ぐらい評判の悪いものはないから、もう取り締まらない教員が多い。自分の髪の毛をどうす るかは基本的人権に属するなんていわれれば、誰も反論できるわけがない。朝っぱらから苛立ち の中、「村上は右脇にマシンガンをかかえ、バカ生徒たちをバババババと薙ぎ倒しながらギーコギ ーコと古自転車をこいで」校門に入っていく。
 村上の苛立ちは教師にも向けられる。セルフサービスなのに生徒たちが食器を片付けない、ホ ームルームで一言注意せよと担当教諭が朝会で依頼する。村上「てやんでえ、一言注意するぐら いで生徒が言うことを聞くんだったら、こんな楽なこたぁないよ。」
 村上は組合をやめた未組教員である。その上組合の基金に主任手当を拠出していない。彼が 教頭試験適齢期にあることもあって、反動的だとか思想傾向がおかしいとか教員中間でとかく評 判が悪い。だが村上はいう。「組合だってさ、・・・ただ自分たちのエゴを通すためだけの組織に成 り下がっちゃたと思っていやになってやめたんだからね。」
 人権派の同僚への批判は尽きない。「あれ(校則)があって生徒を規制しているからみんな教師 でございって顔をしてられるんでしょ。教師の一人ひとりが人格としても立派だから生徒が言うこと をきくんじゃないんだよ。そこがまったくわかってないんだなあ。」こうしてますます浮いていく。
 底辺高校における日常生活の進行の中に、唯野教授よろしく日本史の授業が入る。縄文・弥 生時代から大東亜戦争まで6講からなる授業は、私たちが読んでも楽しい。「わたしにもだんだん 日本史の輪郭がつかめてきたからさ、そのエッセンスだけでも生徒たちにどうしても伝えたくって さ」という彼の授業は、しかし同僚教員から見ると、研究者の常識には合致しているものの、教科 書から逸脱したやや過激なものであるらしい。
 さてカンジンの「日の丸」騒動のくだり。熱烈な組合信仰派教員と、日の丸掲揚派校長の双方 から説得された村上が、どうこれに対処し、どう事件に巻き込まれ、ハチャメチャで不幸な結末を 迎えてしまうのか。映画の予告編よろしくこのあたりで紹介を禁欲しておこう。ただ日の丸騒動は、 高校教育現場のひとつの風景にすぎない。
 この作品が「実録」でありながらパロディとして成立しているのは、正常と異常が錯綜し、しばし ば「転置」がみられるからである。一見異常な村上の行動は、実は正常であり、しかし彼は教員集 団にあって異常者、逸脱者として浮いた存在でもある。小説の進行に笑い、あきれかえり、うなず きながら見えてくるのは、異常が正常となり正常が異常となる、教育現場の構図である。これがパ ロディとして読めてしまうことの意味に気づくとき、私たちは深刻な恐怖とどうしようもない脱力感に おそわれるのである。

以上

1996年12月5日


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