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学生の声

2016年4月14日更新

では、それぞれのメニューを味わった3年生から、中身と感想を聞いてみましょう。
 

A.論文講読:マムルーク軍人の比較研究

ゼミの前期、おのおの奴隷や軍人に関する研究論文を読んで発表をしました。ところで・・・みなさん、特に教職を履修している方、ご注意ください!
この時期に欠席すると、担当する論文を勝手に変えられる危険性があります!
それは、介護等体験の説明会で欠席した時のこと起こりました。次の週に出席したときに、面白いけど、引き受け手のいなかったであろうイスラム法に関する研究論文(柳橋博之「イスラーム法と統治システム」)を担当する羽目になってしまったのです・・・・。
けれどまあ、その様な論文に担当することになったとしても、多くの誤字の存在するレジュメをきってきたとしても、ゼミ生は勿論のこと三浦先生も暖かく見守ってくれます。様々な発見のあるゼミです。奮ってご参加ください。
(中島 祥子)

B.中世エジプトの年代記を読む

私たちは、イブン・タグリー・ビルディーのアラビア語年代記の英訳から、「スルタン・ファラジュの治世」の部分を、6人で分担して報告しながら、読みました。報告担当のときは、まずは、英語を日本語に訳し、関連事項について英語の『イスラム大百科事典』などをつかって調べ、それをレジュメにまとめて発表。そして、討論という形で進みました。この年代記を読んでいて、一番悩まされたことは、人の名前がやたらにたくさん出てくること。たくさん出てくるうえに、ひとりひとりの名前が、やたらに長い。さらに、この年代記は、マムルーク朝のスルタン(国王)の位をめぐる争いが延々と書かれているのですが、敵・味方がころころと変わるので、だんだん、誰が誰だかわからなくなってしまって、戦いがどう進んでいるのか、筋を見失ってしまうこともしばしば・・・という感じでした。でも、内容的には、武将の戦いの話だけに、ドラマチックでおもしろいものでした。
(佐瀬 奈々美)

1年間のゼミを終え、その内容を説明しようという段になってふと、「マムルーク」という言葉が、一年の間に自分の頭の中で随分とその内容に膨らみと深みを持つに至ったなあ、と思う。試しに「マムルーク」という言葉を舌の上で転がしてみる。そして呟いてみる。何とも愛らしい響きである。 

真面目な学生とは言い難い私でさえこのようであるから、熱意に溢れたTさんやKさんはきっとマムルークの夢をみるだろうし、SさんやNさんはマムルークに詩を捧げているだろう。三浦先生に至っては、最近、凛々しく麗しい二人の息子さんをマムルークと錯覚したりして危険だということだが、憶測である。

「マムルーク」という言葉には「所有された」という意味があり、イスラム史の中では専ら白人奴隷出身のエリート軍人を指す。歴代のイスラム王朝の支配者達は、奴隷商人を介して各地から集めた少年達にイスラム教育や軍事訓練を施して、「親衛隊」として用いていた。彼ら「マムルーク」達が、自分たちの中から君主を戴いて開いた王朝が「マムルーク朝」であり、13世紀から16世紀まで続いた。この王朝の歴代スルタンの治世を描いた年代記の中から、15世紀初頭のスルタン・ファラジュの治世に関する部分を今回のゼミでは中心的に扱った。

年代記は英訳である。時代は乱世である。なんだか戦ってばかりである。そして名前が長い。聞き慣れない上に紛らわし人名や地名、役職交代の詳細な記述に頭を混乱させながら、暗号文でも解読するかの様な心持ちで必死に読み進めていく。(もし解読をミスしても爆撃を食らったりはしない。三浦先生は寛容と忍耐と、平和の人である)

今日味方であった者が、明日敵となる目まぐるしさである。疫病は流行る、馬上からパチンコで石が飛ぶ、謀反人は胴を真っ二つ、太ったマムルークは逃げ後れる・・・・・。

次第次第に面白くなる。社会のシステムが判らない、人々の価値観が判らない、地理風土が判らない、そこから始めて、年代記の記述から得たイメージの断片を先行研究で補いながら、年代記に描かれそして生きられた世界の像を何とか頭の中に組み立てていく。マムルーク達の行動や言葉の端々に、マムルークとしての美徳や虚栄心、また一個の人間としての優しさや気弱さ、優柔不断が顕れていて面白い。確かに描かれた人物像がどれほど実物を反映しているかという疑いもある。しかしそこでは、年代記作者イブン・タグリービルディーの社会的立場や、年代記作成の環境を考慮して、「史料を批判的に読む」という歴史学の科学的な側面を楽しんでみるのもよいと思う。

ゼミの参加者は、それぞれ年代記の5、6ページを担当して授業の際に発表をする。ただ読むだけでやっかいなものを人に分かりやすく、面白く説明するというのだから容易ではない。私のように焦りと緊張の為に途中で道を見失い、三浦先生の掲げるカンテラの灯に照らされてヨチヨチ歩いていくのもおれば、三年時編入のSさんのように想像力に羽根をはやしていて、時にもの凄い飛躍をするのもいる。(ただ羽根が溶けて墜落しなければいいがと心配するほど、無鉄砲にやたら飛ぶ。Sさんは論理の飛躍の人である)また、Nさんのように冬でも半袖・半ズボンで中央アジアのソグド商人を追い回したりすると、単語の読み方が何だかとっても我流になって、羽の生えたSさんが笑いながら落ちてくる。三浦先生はNさんをステップルートに捕まえる。「この辺は寒いなあ。地中海とか紅海とかあたりが暖かくていいと思うよ。どう、そろそろ戻ってきたら」「いや先生、万物は全て土塊から成る、とオマル・ハイヤームも言ってます。人間至るところに青山あり、とも言います。私はステップの乾燥土になりたい」「ぬ、そこまで言うなら先生は止めない、しっかりね」

カンテラは投げ出される。私は行き場を失って、しかたあるまい、と足下のカンテラを拾う・・・・。

「研究の進め方にはそれぞれ個性があって、長所は短所とも言えるし、短所は長所とも言える」という三浦先生の言葉に励まされるようにして、学生6、7人顔突き合わせ、思い思いの興味・関心に沿って、発言し、発言を反省し、また発言する。こんなふうに行き当たりばったりな学び方をしていても、「オヤ、なるほどな」と悟ることもあり、「うおぉぉ」と暫く迷宮に遊ぶこともある。とにかく、自力で歩道を敷いて頑張って歩いていく。出来れば鉄道を敷いてしまいたいところだが、爆走する為の燃料が自分には不足していることも認識せねばならない。それは知性であったり、感性(センス)だったりする。

三浦先生はスフィンクスである。学生に謎をかける。その答えは「人間」である。そう答えた者は汝自身を知らねばならぬ。オイディプスのように目を潰してでも自己の内面を見つめなければならぬ。そして歴史学をやる以上、視線の先にまた外界も据えて、広い意味での「人間」に思いを凝らす必要もある。いや、それは愉しみであろうか。

道の先には何がある?
マムルークへの愛着がある、人間への愛着がある、そして更なる道がある。
一年間で学んだことと言えば、このようなこと。
何だか分かりにくい紹介になってしまったが、現場の臨場感が伝われば幸い。「ひとりひとり、そして皆で」というのがイスラム史ゼミの風景だろうか。頑張ろう。
(中江 未来)

C.長期休暇の過ごし方(夏休みレポート)

2000年度の夏休みの課題は、自分が卒論を書くにあったって興味がある事項を選んで、そのテーマについて既に書かれた文献を一通り読み、自分なりの展望を見出す、というもの。「青々と生い茂る木々、雲一つない澄み渡った空、すべての生命が生き生きとしているこの季節、私は意気込んで宿題に手をつけた。これまで小・中・高と、教科書に書かれている決められた内容しか勉強してこなかった自分にとって、これほどワクワクしたことはなかったような気がする。自分がやりたい、学びたいと思うことを自分がやりたいようにできるということがすごく新鮮だった。そういう環境があると自然と机に向う時間も長くなる。朝わけもなく早く起きて、文献探しに他大学に探検しに行こうとか思ったりする。学問をするってこんなに楽しいんだ、って思いながら毎日を過ごしていた。」なんて言えると理想的だけれど、実際は暑さにうだって、机に向っても頭がボーッとしていてなかなか勉強に集中できない日々が続いた。前半(夏休み始まり~8月いっぱい)はこのような感じで過ぎていき、九月にはいったある日アッラーからの啓示をうけ、さすがにこのままではまずいと思い出し、これまでの自分の怠りを悔い、改心する。

そんな私が言うのもなんなのだけれども、イスラムについて学ぶ上で、夏休みっていうのはとても大切な時期。なんていったって、今後卒業まで向かい合わなくてはならないテーマを決めるわけだから。この時に決めたテーマがイマイチで後に変えようと思っても、時間がない、やる気がない、文献を探すのが面倒くさい、先生に会わせる顔がない、留年する勇気がないなどの諸問題が生じてなかなかにテーマ変更は難しい。だからこれに自分の学問人生すべてを捧げるわ、くらいの意気込みでテーマを決める必要がある。前々からこれがやりたいっていうことが決まっている人はその分楽かもしれないが、何をやりたいか手探り状態の人はこの時期にいろんな文献を読んで自分の興味を知っておかないと、後で焦ることになる。いずれにせよこの時期は様々な文献を読むことになる。この作業、面倒くさいと思う人もいるかもしれないが、ところがどっこいこれが意外に面白い。というのも、文献は全部が全部お茶大にあるわけではなく、ないものは他の大学に行ったりして集めてこなければならない。そうすると自然に他大訪問を繰り返すことになる。他の大学というのが、これまた新鮮で、特に大学は大学でも共学の大学は新鮮で且たのしい。というのも、そういうところには決まって男子生徒がいる(当たり前)。彼らの勉強に励む姿をみると、(かっこよくて)素敵!と思ったり、負けられないわと勝手にライバル意識を燃やしてみたり、とわけも分からず一人で舞い上がったりして。あ、話がずれてきてしまった。この話に関しては、こういう別の、人によってはどうでもよい楽しみをもって勉学に励むジンミーも中にはいて(一人だけ)、そういう人もうまくイスラム史ゼミのなかで共存しているということも面白いな、さすが柔軟なイスラム社会!くらいに思っておこう。

そんなこんなで人それぞれ方法やペースは異なるけれど、イスラム史ゼミ生の某熊倉さんは、こんな風に夏を満喫していました。
(熊倉 和歌子)

F.課外の楽しみ

イスラーム世界が「多様性」という言葉をもって説明されるならば、これは我々のゼミにも当てはまるだろう。

まず、学外参加者がいる。2000年度は戸塚さんという頗る気品に溢れた淑女であった。卒論を書き上げただけあってさすがに知識豊富。イスラーム世界によせる情熱は我々学部生も顔負けする程で、非常に刺激的であった。
次に、いろんな行事がある。6月は東洋文庫見学会。終始、小学校の遠足を彷彿させる和やかさであった。さすがはお茶大である。11月は映画上映会。「マムルーク」というエジプト映画を観賞。ハンサムな主人公にうっとり、お馬鹿さんなヒロインにやきもき、悪政を敷くスルタンにむかむか。華やかな画面に見とれていると、いつの間にかタイムスリップ、気づくとそこは中世エジプト・・・・。1月はアラビア語の授業と合同で“終了コンパ”。何故か西洋史の人や日本史の人が元気だったりする。アラビア語がお茶大共通語になる日は遠くない。

もちろんゼミ生の顔ぶれも多様である。イラン帰りのお嬢さんは、常に頭を抱えており、更なる「内面」を求めイェルサレムに巡礼するとかしないとか。また、イタリアを満喫したと思ったら、今度はエジプトへ飛んだ軽やかな人もいる。冴えた質問で場を活性化する守護神のような人もいれば、「破壊神シヴァ」の異名をとる強者も。因みに我々ゼミ生は「イスラム親衛隊」なる呼称を頂戴したが、その名に違わず、親衛隊ぶりを発揮している。まず、学生控え室をイスラーム一色にしようと計画中なのだが、未だ実現していない(レコンキスタを警戒の為)。また、突発的にゼミ内だけのブームが巻き起こったりする。特に、現代アラブ小説の話題で盛り上がった時は、ガッサン・カナファーニー「太陽の男たち/ハイファに戻って」とナギブ・マフフーズ「バイナルカスライン」がその後暫く中央図書館から姿を消してしまった。もしかしたら今現在も貸し出し中かもしれない。

この「親衛隊」を擁するのが我らがウスターズゥ、トゥール・ミウラである。聞くところによると、嘗ては「彼の通った後にはペンペン草さえ生えない」と言うほどの論客だったらしい。しかし心配ご無用。今は柔和な笑顔と手料理で迎えて下さる。何でもアラブ料理が得意だそうな。乞うご期待である。

以上のような番外編からも、三浦ゼミの、ひいてはイスラーム世界を学ぶ人たちの懐の深さが窺えるだろう。
(坂本 祐子)

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