HOME 第5回ホームカミングデイ シンポジウム報告 「東日本大震災における地理学の実践」小田隆史

第5回ホームカミングデイ シンポジウム報告

シンポジウム「震災を地理学から考える」
文教育学部・地理学コース共同企画、お茶の水地理学会共催
2012年5月26日(土) 14:30-16:00
講  演
田宮兵衞(本学名誉教授):「日本の自然と災害」
小田隆史(本学シミュレーション科学教育研究センター助教):
      「東日本大震災をめぐる地理学の実践」
開会の辞 三浦 徹(文教育学部長)
司  会 宮澤 仁(地理学コース主任)
参 加 者 70名
 
「東日本大震災をめぐる地理学の実践」 小田隆史
 福島県いわき市に育ち、宮城県仙台市の大学、大学院で地理学を学んだ報告者にとって、昨年3月11日の東日本大震災は、「若手」地理学研究者としての自らの今後に大きな衝撃と影響を与えた。ここ10年来、気仙沼市で国際交流などの活動に携わってきたこともあり、三陸や浜通りの太平洋岸にゆかりがあった。そんなかつての東北の姿を振り返りつつ、今回のお茶の水地理学会では、報告者が、地理学的な場所、空間的な事象を意識しながら、いかなる研究と実践を行ったかについて報告した。その多くは、本誌2011年60号の拙稿及び長谷川直子先生による本誌2012年61号に掲載されている内容と重なるためここでは簡潔に、そこで述べられていなかった事例を提示しておく。
 地震直後の「風評」による混乱の経験と、その地理空間的な誤解の問題である。図1に示した二つの地図を見比べてほしい。左は主に1920年の福島県中通り・浜通りの自治体、右は同域内の最新の自治体の行政界を示した上に、福島第一原発から半径20km、30km、100kmの円を重ねている。平仮名の「いわき市」は1966年に当時14あった自治体が合併して、その時点で日本最大の面積を誇る中核都市として成立した。その北部境界付近が、原発事故の深刻化を受けて屋内退避区域に指定された。その際、地図などを駆使した正確なリスク情報の伝達が行われなかったために、あたかも「いわき市全体」が危険区域に指定されたと誤解され、震災直後の混乱の中、必要物資の輸送車両が市内に入ることを忌避した事案が生じた。いわき市と南部境界の茨城県北茨城市、西部の郡山市付近まで物資搬送されたが、そこからいわき市に入らず、引き返す又はいわき市から、その後を引き継ぐ運転手を手配しなければならない状態が続いたという。当然、放射線のリスクに関しての見解はわかれたし、目に見えないものであることから、災害心理・集団心理の影響もあって混乱発生は不可避だったろう。  しかし仮にかつての図1左のような区分で細かく地区にわかれていて、それらの名前で警戒区域が発信、説明されていたならば、いわき市(あるいは同様の経験をした、同じく合併自治体の南相馬市)が、「取り残された被災地」として翻弄された事象は相当軽減されていたと思われる。リスクにかかる地理情報の正確な発信の必要性は、このような空間的位置関係を踏まえることで理解出来るものである。
 
図1 1920年(左)と2012年(右)の福島県の自治体(一部)及び福島第一原発からの直線距離(半径20km, 30km, 100km)筆者作成
 
 報告者は、上記のような混乱について、2011年4月に、マスコミの報道等に依拠して東北地理学会災害報告集において報告した他、アメリカ・サンフランシスコの日系英字紙に寄稿し、特に、地震、津波、原発事故と風評、そして相次ぐ余震等、複合的な災害に見舞われたいわき市の実情と、全国にちらばる福島県からの避難者及び福島県内にて避難生活をおくる人々についてGIS地理情報システムにて分析した結果を報告した。
 他方、複合災害に見舞われた被災地を支援しようという国内外の地域、団体が、既存の姉妹都市関係や連携チャンネルを通じて様々な活動を展開している事例を挙げ、こうしたインター・ローカルな「つながり」を通じた支援について空間的に整理分析して、有事の際に、それらが果たす役割を評価することが、地域の災害に対するレジリアンスを高め、災害が発生した際の受援力を向上させる参考となる旨述べた。
 災害研究を専門としてこなかった報告者にとって、東日本大震災は、ポスドク研究員として赴任するため、離れたばかりの東北との縁を再び深めた。そして、現地の人々と調査や支援活動で交流するなかで、かかわりを強めていくことになった。その活動のホームベースがお茶大である。こうしたご縁を大切に引き続き周囲の先生方や学生の理解、協力を得ながら、この災害に向き合い、出来る限りの活動を継続していきたい。